昭和50年05月28日 朝の御理解
御神訓 一、「信心は本心の玉を研くものぞや。」
私は段々信心の事を、天地の事を判らして貰い、天地の道理を判らして貰い、色々な教えを聞かして貰うて愈々解り、愈々ギリギリ決着の所は、私はこの御教えだと思うです。どう言う素晴らしい御教えも、どう言う素晴らしい道理も、どう言う大変な天地の御恩徳を解らして貰えれる、おかげを頂いても、本心の玉を研くと言うこの事がなかったら、只それは講釈言うならば物知りだけにしか過ぎない。
それはおかげは受けても、天地の神様の願いである所の、お徳を受けると云う事は出来ないと思う。その本心の玉を研くと云う事は、どげな風にして研きますかと言う様な人がありますよ。それはまあーだ信心のみ教えと云う物を頂いてない証拠です。まあ言うなら教えの全てがです、言うならば本心の玉を研く術を教えられておると言うても良いんです。だからその事に依って改まり、その事に依ってたとえば研く。
勿論ここにはあのー玉を研くと言うのですから、先ず垢を落とすと言う、それを私は改まりだと思うです。先ず改まって、そして愈々それに研きをかけて行くと言うおかげを頂かねばいけない。昭憲皇太后ですかねのお詠の中に、金剛石も研かずば玉の光りも添はざらん、そう言う確か昭憲皇太后の詠があったと思います。どんなに素晴らしい宝石であってもです、それに磨きをかけてこそ始めて光を放つのです。
どんなに言うなれば、神様と同んなじ内容と言うですかね、天地の親神様に対する人間は、まぁ小神と致しましょう。ね。我が心に神が御座るとも教えておられる。その我が心に如何に神が御座って、人間は本来神の子であると言う事であってもです、それが研かれなければ神の働きをしないです。心が神の働きを放つ事を致しませんです。私くしは本当に沢山お道の信心をしておる方達がです。
もうこの様に素晴らしく簡単な御教えを自分の心の真に頂いてないと、自分を研かこうとせずに、人ばっかりを研かせよう、研かせよとしている先生。昨日も佐田さん所の共励会、十二時過てましたでしょうか、それからもう殆ど徹夜の様にして、もう話は信心のもう二人で話す事は何時も信心の事ばっかりですけども、もう話を聞いたりさせて貰ったりした事です。昨日は同時に筑水連合会の小郡教会で信心研修会もあっとったですね。最近先生が総務部長する様になってから、初めてだそうですね。
百何名か百何十名来て百名を越したそのう集まりは。それでそのう矢張り受け持ち教会の、矢張り信心が生々しておると言う事も御座いますましょうが。終わって後、幹部の方達がの残ってからの話が、どう言う訳に何処の教会でも若い者が育たないだろうかと言う事に話題が出たそうです。宮の陣に今村さんと言う熱心なご信者が居られます。合楽なんかどうしてあんなに若い者が育って行くだろうか、もう何処の御大祭にお参りさせて頂いても、青年会なら青年会の人達で玉串を上げる人すら無い所がある。
上げる方がまぁ何人か、どして青年が育たんのだろうかと。丁度その前に今村さんが、今度幹部の入殿が御座います。御本部入殿が、丁度田植えの真最中だから行かれんとこう言いよんなさったそうです。だから今村さん、あんたがそう言うこっちゃ若い者は育たんばの、と言うたと言いよんなさった、子供がついちゃ来んばの、と言うたと言いよんなさった、そう言う話をしとりました。
例えばもうあぁた息子も居れば嫁御さんも御座る。あんたが一人居らんでん田植えは出来るがと。こと神様の事、然も総代幹部さして貰うて、今度はどうでももう御本部に今度は大きな金光教の一つの替り方をさして頂く為の、話し合いもある事ですから。今度はどうでもやっぱり行かなきゃならない。それにあんたが丁度田植えじゃけん行かれんてんなんてん、そう云う事じゃ若い者んはついちゃ来ん、合楽の場合にはそう言う所が抜けた人達が多いんですよ、と。
例えばお父さんの信心、お母さんの信心だからそう言う在り方には子供が付いて来にゃ居られん。何故かと言うとね、そう言う有り方の上に現れろおかげを目の当たり、見たり聞いたりしているから。今日は忙しかけん参いらんばい。兎に角自分を中心、又はね自分の事を先に取る様な信心で、子供が付いて来る筈はない。若い者が付いて来る筈はないよと言う、はぁやっぱそうじゃろうと言うてそのう若い先生としたと言う話をしとりました。正しくその通りだと思いますよね。
忙しいから信心の言うならば、その一つの芯が本当なものが貫いておる。そう言う人達が私くしはあれば、又多いければ若い者もそれなりに育って来る付いて来るんだと、じゃなかろうかと言うて話したと云う事でした。昨日もうこげん遅かけん泊まって行きなさいと言いましたけど、今日は安東さん所の宅祭りでもあるし、竹葉会でもあるから又家内もどう送ったりせんならんから、なら帰りますと言うて帰られた。
帰り掛けに神様に此処まで送って来ましたからお礼申させて貰いよりましたら、中村玉緒と言う事を頂いた。女優が居りますね、中村玉緒と言う。どう云う事だろうか、いっちょん解らなかったです、はヽあこの人はあん中村玉緒と言うひとは、口にあのう特長のある女優ですね。秋永先生も口に特長のある顔をしとられるでしょう。はヽあだからそう言う所が共通しとる所だろうかと、私はその程度に思うとった。
所が今朝の、この御理解を頂いて、本心の玉を研くものぞやと云う、と御理解を御神訓を頂いて、はヽぁ玉緒とは此の事だったなぁとこう思うたです。是はもう、合楽教会の第一人者と言うても良いと思うんですけども、いろんな場合にです、もう絶対人のせいにすると云うのじゃなくて、自分の本心の玉の方え心を向ける人です、この人は。だから問題は沢山あるけれども、問題が問題でない訳です。
私くしはその本心の玉を研くという信心に徹したらですね、問題はなくなるです。なら難儀な問題がなくなると言うのじゃないです。難儀な問題が例えば、そのそこにあってもその問題自体、例えば昨日の御理解を頂くならです、子供がどうの家内がどうのと言うて、云う様な場合です、自分自身の本心の玉をですね、神様が研かして下さろうとする働きである。子供じゃない家内じゃない、自分が言うなら漬物が臭くなった、どうしてと云う所には問題があるです。
どうして臭うなったじゃろうか、と言う所にゃ必ず問題があるです。どうしてそう云う事をするか、どうしてそんな事を言うかと云う所には、問題があるです。しかも問題は問題を生んで行くです。けれども漬物が臭くなっておるのは、重石が軽かったんだと悟る時です、是は自分自身の信心がつまらなかって、間違うとったと悟る時です、自分の本心を言うならば責めて行くより外はない、改まって行くより外にない。その事に依って研いて行くより外にないです。
そう言う意味でです、私は秋永先生は中村玉緒と頂いたのはそう云う事。そして女ながらもです矢張り主役を務める人ですから、合楽の矢張り私くしの言うならば片腕とでも申しましょうか、なって何時も主役を務めておれれる人だと言う事です。ね。合楽だけではない最近では、連合会またはもういっちょその上の九連ですか、の幹部やらでもなさると云う事は、どこっでんその主役を務めると言う意味のだと言う風に、今朝から思わして貰いました。中村玉緒と云う事を頂いて。
びっくり仰天する事を、それこそ玉の緒の切れんばかりにと申します。びっくりする事をそう言う風にね。玉の緒の切れんばっかりに驚く。例えばそう云う様な、なら驚くと言う様な場合であってもですね、外に全然持って行かない、結局自分自身の心の上にそれを持って来る、だから問題がない。そこにね私くしは神様の本当の御都合と言うかお働きと云う物が、神様が働きようあんなさる状態が生まれると思うです。
もう本当にあのー折角、信心させて頂くならです、もう本心の玉を研くと云う事が、信心だと一つ本当に解らなきゃいけんです。ね。そしたら絶対問題は無くなるです。それを誰のせいにしたり、彼のせいにしたりする所にです、何時まで経っても救いがない。心が助からん本心の玉と云う物は、もう研いても研いても言うならば、是で良いと云う事はない。もう何時も絶えず研き切って行かねばいけない。
最近合楽で言われる心行、それはもう愈々研くと云う事には一番素晴らしい一つの研く方法だと思いますね。どげんして心ちゃ研くもんですかと言う人にも、その心行を始められる様になったら、心が研かれて来ると思います。同時に例えば、いろんな問題が起きて来る。それを問題にしない程に、自分の本心の玉を見詰る。見詰るだけじゃなくて、それを愈々改まって行く研いて行く。
例えば苦しいなら、こう言う思いをさせてでも、神様が改まらして下さろうとする、研かして下さろうとする働きに、お礼を申し上げる心の状態も開けて来る。皆さん、どうでも中村玉緒にならねばいけませんよ。それにはね結局、自分中心の信心ではなくて、何処までも信心が神様中心で、あらなければ行けないと云う事です。今日は忙しかけんで、今日は自分に都合が悪かけんでと言うのは、自分中心の信心ですから、所謂神様を中心に申し上げた行き方を、先ずは身に付けさして貰う。
あらゆる角度から御教えを頂いて、ギリギリの所本心の玉を研くと云う所に落ち着くと思う。研く為には先ず垢を落とさんならんと言う所に、日々の改まりが第一と云う事にもなる。自分の心が自分で拝める様な心の状態と言うのは、自分の心の光りが、心の輝きに、言うならばそう言う状態に自分で、自分の心に合掌しておる時であると思います。皆さんの周辺にねえー問題がありはしませんか。問題はあるけれども、その本心の玉を研くと云う事に焦点をおいたら、問題はその場で解決致します。
以前椛目の時代に樺目の御信者さん方の、皆の方が合言葉の様に言ってました、限り無く美しうなりましょうやと言う事であった。限り無く美しうなりましょうや、心が汚いから問題があるのです。問題を問題と感ずるのです。もう限り無く美しうなろうと言う事になったら問題はその場で、その場でなくなるですいやぁ人じゃなかったと言う事になるのです。時代のせいでも無からなければ人のせいでもない。
言うなら政治が悪いから、言うならば私しどんがこんな難儀をせんならんと、政治のせいに持って行ったり、人のせいに持って行ったり、社会のそれをせいに持って行ったり、する様な考え方では何時まで経っても本心の玉は研かれません。限り無く美しうなろうと言う事は、愈々改まって研く事にそこから、それこそ美はしい心の状態が開けて来る。限り無く美しうなりましょうやと、お互いが合言葉に出来れる様な信心を愈々続けて行く為には、本心の玉を研くと云う事になるのです。
本心の玉を研く事はね、本当の事が本当の事として解って来るんです。言うならば、肉眼をおいて心眼を開けと仰るが、心が清まって来なければ心眼は開けて来ないです。本当の事が見えてご覧なさい、どう言う例えば腹の立つ問題であっても、腹の立つ段じゃない、有り難う御座いますと言うお礼より外にないです。だからこの辺の所を日々の生活の上にです、一つの焦点として信心生活をさして頂くとです、生活が非常に麗しいね言うならば尊い有り難いものになるです。
本当に今日も信心の稽古をさせて頂きまして有り難う御座いますと言う、本当に稽古をさせて頂いて有難さと云う物が一日を締め括った時に、必ずそう言う実感が伴います。昨日午後でしたが福岡から有る方が娘さん義理の娘さん、最近妊娠のおかげ頂いておりますから何か、気が立って居るか何か非常にその、無茶苦茶な事を言う、それでも義理もある事だからと思うて辛抱しとる。最近では辛抱じゃない、是こそ自分自身の研く材料と思うて取り組んで来た。
所が昨日は一寸した事から母親と言い争いになって、そこに自分が出らにゃよかったけれども、お母さんが言いよる事は解らんか、こうこうこう云う事じゃないかと言ったら、もう愈々このそれこそ蜂の巣を突いた様にそのうまぁなって、そう言う相手を怒らせた時点で、しもうた神様相済みませんと言うて、一寸わざわざでもお詫びに出て来なければ居られなかった、と言うて参って見られた。
私はもう此処を退って裏に居りましたけれども、今日はどうでも親先生にお目にかかって、その事をお詫びして頂かにゃ心が済まんと言うてね、例えば本心の玉を研くと云う事に焦点を置いたら、そう言う風に例えば失敗致しましたら、もうそのまま神様に通う様なお詫びをせなければ居られないです。そう云う物が出来てくる時にです、言うならば娘も助かり家内も助かると言ったような道が、それこそ雨降って又地固まると云った様なおかげがその次には必ず開けて来るです。
どうぞ信心は本心の玉を研くものぞや。あらゆる教えを頂いてギリギリの所は此処に落ち着くものです。そこでなら研かして頂く、言うならば様々な材料は沢山ある。どんなに素晴らしい宝石であっても、研かなかったら玉の光りは出ない。どんなに人間が神の子であってもです、本心の玉を研く事に焦点を置かなかったら、人間の面しとるだけで、それこそ人面獣身と言ったような結果になって来るのです。
あん奴ばっかしは人間の面しとるばっかりもう心は恐ろしか、あの人の心ばっかり、と言う事なって来るです。言うなら性が変わって来ます、何時もかつも腹かきよると。もう性が変わったら布でもなんでも同じでしょうが、ビリビリ破れるごとなるです。ね。垢やら汚れが付きますと。第一もう本心の玉を研くと言う事はね、誰でももう本当にもう問題がなくなると言う事と同時にね。
腹の立つと言うな事がなくなるです。折角信心させて頂くのですから、本当の所にあのう焦点を置いてみて下さい。置いてみて下さいでなくて、置きなさい。なら今日は秋永先生の事を取り上げましたけれども、確かに皆さんそう感じられるでしょう。あの人の場合は本当に確かに、それは出来とるとは思いません。なら素晴らしいとは思いません、けれどもそれが堂々回りであるかも知れません。
けれどもギリギリは自分の本心の玉へ持って来て、一時ばかり研き忘れとると、また問題が起ると又研くと言う様な事かも知れません。だからそれを言うなら目細うです、もう研いて研いて研き切って行く事だと言う事なんですよね。そう言う意味合いで秋永先生の信心を本当に、言うならば育てて行ったら素晴らしい本心の玉が研かれる事になり。光りを放つ様になると云う事は、お徳を受けると云う事なんです、ね。
どうぞ。